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「深き思索、静かな気づき」
No.122
経営者の運気と人間力


筆者は、全国数千名の経営者が集う私塾を主宰しているが、そのため、様々な経営者から大切な質問を受ける。

その一つが「経営者が身につけるべき究極の力は何か」との質問である。

これは極めて重要な問いであるが、筆者の答えは明確である。読者は驚かれるかもしれないが、誤解を恐れず述べておこう。

「運の強さ」

それが、経営者が身につけるべき究極の力である。

実際、永年、優れた経営者を数多く見てきたが、名経営者と呼ぶべき人物は、例外なく誰もが、この「運の強さ」を持っていた。

しかし、それは決して「強運の星の下に生まれた」といった運命論や神秘論の意味ではない。

そうではない。「運気」とは、その人物の「人間力」が引き寄せるものに他ならない。実際、筆者が縁を得てきた「強運の経営者」は、人を惹きつける魅力を持ち、多くの人が周りに集まり、共に歩んでくれる「人間力」を持っていた。

このことは、『運気を磨く』という著書においても詳しく述べたが、しかし一方で、ある時期まで「優れた人間力」と「運気の強さ」を持っていると思われた経営者が、「晩節を汚した」と評される状況に陥った姿も、様々に見てきた。

では、なぜ、そうしたことが起こるのか。なぜ、この経営者から「運気」が去っていったのか。

その理由も、明確である。

それを敢えて言葉にするならば、「全能感の落し穴」に陥ったのである。

すなわち、才能と意欲に溢れた若い経営者が、謙虚な気持ちを大切にし、周りの人々にも気を配り、 地道な努力を積み重ね、優れた業績を挙げていく。

その結果、周囲と世の中の評価も高まり、社会的地位も上がっていき、相応の権限や権力を手にしていく。また、多くの人々がこの経営者の意見に耳を傾け、部下や社員も自身の言葉に従うようになる。 そして、遂に、経営者としての「絶頂期」を迎える。

しかし、実は、この時代が、最も危うい時代。

なぜなら、この経営者が、「人間を磨き続ける」という修行を怠っていると、この「絶頂期」にこそ、「運気」が去るからである。そのため、予想外の出来事、ささいな出来事によって、経営や人生が躓くということが起こるからである。

だが、その「不運」と見える出来事は、実は、自らの「心の姿勢」が引き寄せたもの。

組織の権力を一手に握り、頂点を極めたと思う時代に、心に生まれる「全能感」。自分なら何でもできるという「錯覚」。心に忍び込む無意識の「傲慢」。結果として生じる「油断」。そうしたものが、恐ろしいほど「悪しき出来事」を引き寄せる。

経営の世界の、その「摂理」を知り、その「怖さ」を知るからこそ、昔から、真に優れた経営者は、「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」という言葉を、心に刻んできたのであろう。

そして、それゆえ、経営の世界では、永く、この格言が語られてきたのであろう。

千人の頭(かしら)となる人物は、
千人に頭(こうべ)を垂れることが
できなければならぬ。

実際、若き日に薫陶を受けた、ある名経営者は、三千人の社員を預かる心構えを、こう語っていた。

十人の会社なら、経営は、難しくない。
百人の会社でも、全社員の顔を覚えられる。
しかし、千人を超える会社になると、
社員の後姿に手を合わせ、祈るしかない。

筆者が、過去の著作の中で、「日本型経営」の優れた精神を語り続けてきた理由は、日本企業においては、かつて、こうした言葉や心構えが、水や空気のように語られてきたからである。

そして、それゆえ、現在、二千名の教職員の人生を預かる立場にある筆者もまた、一人の経営者として、この言葉と心構えを胸に刻み、歩んでいる。

世を見渡せば、その絶頂において不祥事で座を追われる経営者もいる。しかし我々経営者は、それを興味で論ずるのではなく、すべてを「他山の石」とし、自らを省みる「鏡」として歩むべきであろう。

そして、そのとき定めるべき、覚悟がある。

地位や権力とは、素晴らしき仕事を成し遂げさせるために、天が、己に与えたもの。

その覚悟こそが、最高の運気を引き寄せる。